秋蛇星短編映画製作所 20200716 制作 阿部定が最後に勤めた丹波篠山の
遊郭京口新地へ行く!
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2019年2月、とんでもない ニュースが飛び込んできた! 阿部定が働いていた 京口新地跡にある妓楼「大正楼」が強制執行により
取り壊されるというニュースだった!

なんという無粋なことをしてくれるのだ!
最大の観光資源を最悪な方法でぶっ壊すとは!


右前方の草屋根は「futaba cafe」 阿部定とは1936(昭和11)年5月18日に、
愛人の男性のアレをちょん切った「阿部定事件」で有名な方
次に現れる怪しい建物は?
「秘佛公開」聖天寺 聖天寺は、入場料1000円いるが、入るだけの価値はある。
もっとも、私は顔パスで入れるが。
親父さんと親しくなり、2回目以降は、顔パスになっているのだ。
ネパールや国内から集めた性に関する秘 仏や珍品が嫌というほどに建物いっぱい に集められている。

昭和初期?と思われる陶器製のバイブは見もの。
いわゆる
「秘宝館」だが、もはや国内でも 絶滅危惧種だ。例によってこういうところ のオーナーは話し好きだが、その例に漏れない。 阿部定事件 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 事件現場となった尾久の待合「満佐喜」(「まさき」[1]) 場所 東京市荒川区尾久三業地[2] (荒川區尾久町一八八一尾久三業地内[1]) (現・東京都荒川区西尾久2丁目付近[要出典]) 概要 仲居であった阿部定が愛人男性を絞殺し、男性器を切り取った。 阿部定事件(あべさだじけん)は、仲居であった阿部定が1936年(昭和11年)5月18日に東京市荒川区尾久の待合で、性交中に愛人の男性を扼殺し、局部を切り取った事件。事件の猟奇性ゆえに、事件発覚後及び阿部定逮捕(同年5月20日)後に号外が出されるなど、当時の庶民の興味を強く惹いた事件である。 阿部 定(あべ さだ、1905年(明治38年)5月28日生まれ)。東京市神田区新銀町(現在の東京都千代田区神田多町)出身。 芸者や娼婦などをしながら各地を転々としていた阿部定は、名古屋時代から交際していた中京商業学校の校長で名古屋市会議員の大宮五郎の紹介で東京・中野にある鰻料理店「吉田屋」の女中として田中加代という偽名で働き始め、その店の主人・石田吉蔵に惹かれる。吉蔵も次第に阿部定に惹かれ、二人は関係を持つようになり、他人に気づかれないように店を離れたびたび二人で会うようになる。石田と定は駆け落ちし、待合を転々としながら、尾久の待合旅館「満佐喜」に滞在した。性行為の間、定はナイフを石田の陰茎に置いて、「もう他の女性と決してふざけないこと」と凄んだが石田はこれを笑った。二夜連続の性行為の最中、定は石田の首をしめ始め、石田は続けるように定に言った。性交中に首を絞める行為は快感を増すと石田は定に言ったという(窒息プレイ)。 1936年(昭和11年)5月16日の夕方から定はオルガスムの間、石田の呼吸を止めるために腰紐を使いながらの性交を2時間繰り返した。強く首を絞めたときに石田の顔は歪み、うっ血した。定は石田の首の痛みを和らげようと銀座の資生堂薬局へ行き、何かいい薬はないかと聞いたが、時間が経たないと治らないと言われ、気休めによく眠れるようにとカルモチンを購入して旅館に戻る。その後、定は石田にカルモチンを何度かに分けて、合計30錠飲ませた。定が居眠りし始めたとき、石田は 「俺が眠る間、俺の首のまわりに腰紐を置いて、もう一度それで絞めてくれ。おまえが俺を絞め殺し始めるんなら、痛いから今度は止めてはいけない」と話した。しかし定は石田が冗談を言っていたのではと疑問に思ったとのちに供述している。 5月18日午前2時、石田が眠っているとき、定は二回、腰紐で死ぬまで彼を絞めた。定はのちに警察で「まるで重荷が私の肩から持ち上げられたように、石田を殺したあと、私はとても楽になった」と供述している。定は包丁で彼の性器を切断した。雑誌の表紙に(ハトロン紙とも)陰茎と睾丸を包み、逮捕されるまでの3日間、彼女はこれを持ち歩いた。定は傷口から流れ出た血でシーツに「定吉二人キリ」、左太ももに「定吉二人」と書き、石田の左腕に包丁で「定」と刻んだ。石田のステテコとシャツを腰巻の下につけると、定は宿の人間に「(吉蔵は)具合が悪くて寝ているので午後になるまで起こさないで」と言い、午前8時ごろに宿を出た。 宿を出たあと、定は大宮五郎に会い繰り返し彼に謝罪した。しかし定の殺人をまだ知らない大宮は定がもう一人の恋人を連れて行ったことを謝罪していると勘違いし、大宮はさほど気にせずその夜は定と肉体関係を持った。定の謝罪は、自分と大宮の交際がスキャンダルを引き起こすにちがいないということを知っていたからである。しかし、5月19日に新聞は阿部定事件を報じた。大宮ものちに法廷で定との関係を証言することになる。 阿部定パニックを報じる東京朝日新聞(1936年(昭和11年)5月21日版) この事件はすぐに国民を興奮させた。そして彼女の捜索について引き続いて起こる熱狂は「阿部定パニック」と呼ばれていた。瓜実顔で髪を夜会巻きにした細身の女性を、定と勘違いし通報を受けた銀座や大阪の繁華街は一時騒然としてパニックになった。定が現れたという情報が流れるたびに、町はパニックになり、新聞はそれをさも愉快に書きたてた。この年に起こり失敗した二・二六事件クーデターの引用で、目撃例の犯罪が「試みイチ-ハチ」(「5-18」または「5月18日」)と諷刺的に呼ばれた。「上野動物園クロヒョウ脱走事件」「二・二六事件」とあわせて「昭和11年の三大事件」[3]と呼ばれている。 5月19日、定は買い物をし映画を見た。5月20日に品川の宿(品川館)に大和田直なる偽名を使い宿泊、大阪へ逃亡する予定であった。そこで、彼女はマッサージを受けて、3本のビールを飲んだ。彼女は、大宮五郎、友人、石田に別れの手紙を書いていた。午後4時、高輪署安藤刑事は偽名で逗留している彼女の部屋に訪れた。「阿部定を探しているんでしょ?あたしがお探しの阿部定ですよ」と、さらりと言うと逮捕された。刑事らは定の落ち着いた態度に驚いた。 阿部定が最後に勤めた遊郭「大正楼」(兵庫県丹波篠山市。2019年3月、倒壊の危険性が高かったため、行政代執行により強制撤去され) 定は逮捕されると「私は彼を非常に愛していたので、彼のすべてが欲しかった。私たちは正式な夫婦ではなかったので、石田は他の女性から抱きしめられることもできた。私は彼を殺せば他のどんな女性も二度と彼に決して触ることができないと思い、彼を殺した」と述べた。なぜ石田の性器を切断したかについては「私は彼の頭か体と一緒にいたかった。いつも彼のそばにいるためにそれを持っていきたかった」と供述している。 この犯罪の詳細が公表されたときのデマでは、石田の陰茎が驚異的なサイズであると切り出した。しかし逮捕のあと、定に質問した警官はこれを否定した。「石田のモノはちょうど平均であった。私を性的に喜ばせたいというテクニックと奉仕的な愛撫をする石田が好きだった」と定は答えている。定の逮捕後、石田の陰茎と睾丸は東京医科大学の病理学博物館へ送られた。第二次世界大戦後まもなく、一般に公開していたようだ。 裁判の結果、事件は痴情の末と判定され、定は懲役6年の判決(求刑10年)を受けて服役、1941年(昭和16年)に「紀元二千六百年」に際し恩赦を受け出所している。 釈放後、定は「吉井昌子」と名前を変え一般人として生活していたが、終戦直後に乱造された「お定本」と呼ばれるカストリ本の一つ『昭和好色一代女 お定色ざんげ』をめぐって著者と出版社を名誉毀損で告訴した。告訴したころは埼玉県でサラリーマンの男性と結婚をしていたが(未入籍のため事実婚)、男性が自分の妻が阿部定だと知ったことが原因で破局している。さらにその後、この事件をもとにした劇や映画も製作されている(後述)。 ふたたび各地でいろいろな仕事を転々とするようになったが、1971年(昭和46年)に置き手紙を残して失踪し、以後消息不明となった。しかし、1987年ごろまで石田の永代供養をしていた寺へ毎年命日に花が贈られており、これは定によるものではないかと考えられている。 瀬戸内寂聴がNHKラジオの番組で語ったところによると、事件後、芝居・見世物一座で本人が講釈し、石田の陰茎の模型を見せることもしていたという(浅香光代も子供時代に阿部定劇を見たと語っている)[要出典]。 類似の事件 1953年(昭和28年)にこの阿部定事件と同様の事件が東京都文京区で発生している。また1972年(昭和47年)4月29日にも同様の事件が東京都杉並区荻窪で発生した。アパート2階にて徳島出身の当時予備校生だった旅館の跡取り息子(21歳)と、この旅館の仲居として働いていた女性(32歳)が別れ話のもつれから争い、彼女が彼の性器を包丁で切りつけた。予備校生の性器は皮一枚を残してほとんど切断された状態となり、元通りに縫合することは困難とされた。 1954年に大阪府の被差別部落出身の女性教師が結婚差別を受け、硫酸で恋人の局部を焼く事件が発生(硫酸事件)。 切断部位の表現 事件発生後、阿部定が切断した性器をどう表現するか、各新聞社は頭を悩ませた。「ちんぽ」「おちんちん」などでは品位がないし、「男性器」「生殖器」などでは生々しすぎたからである。またこの事件のメインテーマでもあるため、お茶を濁して誤魔化すわけにはいかなかったのである。苦慮の末、「局所」「下腹部」という表現が用いられて報道され、これ以後は性器部分をあらわす言葉として定着した。 作品 この事件を元にした数々の映画や小説なども製作された。 小説 「妖婦」織田作之助 1947年(昭和22年) 「失楽園」渡辺淳一 1997年(平成9年) 映画 「明治大正昭和 猟奇女犯罪史」 1969年(昭和44年) - 阿部定本人が登場し、インタビューに答えている。 「四畳半襖の裏張り」1973年(昭和48年) - R18+指定 「実録 阿部定」 1975年(昭和50年) - R18+指定 「愛のコリーダ」 1976年(昭和51年) - R18+指定 「失楽園」 1997年(平成9年) - R15+指定 「SADA」 1998年(平成10年) - ベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞受賞 「平成版・阿部定 あんたが、欲しい」 1999年(平成11年) 「愛のコリーダ2000」 2000年(平成12年) - 1976年(昭和51年)公開の「愛のコリーダ」のノーカット版 「JOHNEN 定の愛」 2008年(平成20年) - R18+指定 「阿部定 最後の七日間」 2011年(平成23年) - R18+指定 愛のコリーダ 監督は大島渚。この作品は1976年(昭和51年)に『愛のコリーダ』(L'Empire des sens)のタイトルでカンヌ国際映画祭で上映され、世界各国で公開されるが、日本では大幅な修正が施されて上映された。その後、ノーカット版(正確には一部が修正された)が2000年(平成12年)に公開される。 1976年(昭和51年)の初公開時、この映画の写真と脚本をまとめた単行本の著者と出版社がわいせつ文書販売罪で検挙されるも、裁判は被告人有利となり1982年(昭和57年)東京高裁で検察の控訴が棄却され無罪が確定した。


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阿部定最後の遊郭大正楼 2013.8

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この水路にはそのむかしは水運が盛んだったというが

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ある遊郭の室内


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京口新地
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風の道

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丹波篠山の夕暮れ



【おぉたむすねィく探検隊 精神分析研究班】廃墟とその美、日本人の精神構造を考える会 特別チーム