【おぉたむすねィく グループ公式ブログ】Autumn Snake

もっと詩的に生きてみたい! だから私は【おぉたむすねィく探検隊】 揺り籠から墓場までご案内いたします。

2022年01月


【裏神戸探検隊!】電鉄丸山駅下の謎のバラック消滅集落と動物火葬場跡「謎の天狗の面と喫茶」神戸市長田区(大日丘町~檜川町~天神町~西丸山町)コープ丸山と 大日温泉と丸山音頭の秘密


秋蛇星短編映画製作所 202201120 制作 【脚本】
#消滅集落#ペット火葬場#朝鮮部落#部落#丸山駅#神戸市長田区#長田区#丸山#crematory#火葬場 山の駅に上り列車が進入する かつて「別荘地」として開発された街 そこは神戸市長田区の郊外の町、 「丸山」であった。 丸山駅(まるやまえき)は、兵庫県神戸 市長田区滝谷町三丁目にある神戸電 鉄有馬線の駅。駅番号はKB04。 標高95m。 1928年(昭和3年)11月28日 - 神戸 有馬電気鉄道の鷹取道駅(たかとりみ ちえき)として開業した。 1947年(昭和22年)1月9日 - 三木 電気鉄道との会社合併により神有三木 電気鉄道の駅となる。 1948年(昭和23年)10月1日 - 丸山駅に改称。 1952年(昭和27年)10月1日 - 電鉄 丸山駅(でんてつまるやまえき)に改称。 そこに、一本の謎の煙突が?! なんだ!これは? 大日丘のひよどり橋を渡り、檜川町を南下してみた。 曲「暗く長いトンネル」 2015.07 2分30秒 ストリングス/木管/パーカッション かつてこの辺りには、子供に人気のあった お婆さんの駄菓子屋が存在した。 白藤薬局跡あたり 丸山町や大日丘町、鶯 町、檜川町、雲雀ケ丘、鹿松町など 北部地域の15町を丸山地区と称する。 元来は山岳地域であり、すり鉢状の 急斜面に民家がびっしりと張り付く ように並ぶ独自の景観を呈する。 現在の町並みからは想像しにくい が、昭和初期には別荘地として開 発され、遊園地や料理旅館があ り、「神戸の奥座敷」と呼ばれていた。 喫茶「赤倉」は健在であった。 丸山ショッピングセンター跡 人口が急増した昭和40年代、 神戸電鉄丸山駅西側に「丸山 ショッピングセンター」が開設された。 しかし、数年後に生活協同組 合コープこうべ丸山店が開 店したことで客足が減り、その後閉鎖された。 現在もテナントや駐車場として利用されている。 その先の上り坂の頂上付近に丸山駅はある。 神戸電鉄丸山駅 相対式ホーム2面2線を有する地上駅。 ホーム有効長は5両。駅舎は下りホーム側にあり、 上りホームへは跨線橋で連絡している。 駅前から小路が崖下に転がり落ちるように ついていることを人々は案外知らない。 足元に常に注意を払っていないと 転落しそうな心細い小路である。 ここはこういう場所なのだ そこには、戦時中にはよく見られたアングルを組んだ鉄 製の電柱が見られたが、この電柱が見られる場所は、 長田区では五番町・六番町とここくらいのものである。 通常は、コンクリート電柱に取り替えられていくのだが、 この鉄柱が残るということは、ある意味を持っていた。 駅近物件であるにもかかわらず、ほぼ廃墟だ! もはや自然に還るに任せている。 曲「気配」 2009.04 1分44秒 ストリングス 木管 ブラス ティンパニ 眼下には「角力組」の看板が見える。 「角田」という表札が目に入り、 もう一本の門柱には「ペット霊園」の名が・・ 有限会社「角力組」経営者は 「角田さん」なのだろうと推測できる。 紅白のタスキが縦横に懸かるが、これは 朝鮮人の何らかの習慣なのだろうか? さらに屋根の最奥には1本の煙突が! ペット霊園に近づいてみた 喫茶店の置き看板も見える 「ちょうちんお岩」の ようにぱっくり口を開けた提灯 薄いベニヤの壁には昭和の匂いが 嫌というほどしみ込んでいた 谷を見下ろすロケーションにいくつものイスが並べられ かつては、来客を待っていた風情が感じられた。 曲「十二の音列」 2012.06 2分22秒 オーケストラ 鐘 投げ銭整体? 椅子はまだ使えそうなほどに新しかった。 かつて、ここで喫茶店とペット霊園が運営されて いたのだ、さらに、「投げ銭整体」なる事業も! 残念だね~ 営業中だったら、必ず客になっていたのにね~ 謎の天狗の面が! 動物焼却場絶対反対!の看板が! 地元の「反対運動」にめげず、 開業したんだな、角田さん やはりこの煙突は、動物を焼く 火葬場の煙突だったのだ! ペット霊園全景 角力組は多角経営だったのだ! バラック住宅群は、主に1950年代に 貧民らが建てたもののようだった。 ペット霊園廃墟を出て元の道を戻る。 トタン張りの粗末なバラック小屋が主たる建築だ。 まだペット霊園敷地内 住人たちは死に絶えたのか? Y字路をさらに苅藻川方面へと降りてみた。 前の家には人の気配がわずかにあった。 背後は廃墟のオンパレード! 曲「四声のミサ」 2015.12 2分50秒 さらに苅藻川へ向かって 小路は伸びていたが・・ 崖っぷちの竹藪の道だった。 須磨の少年Aが少年の首を隠した 入角の池へ下りる道はこんな感じだったのではないか? ここにも例の貧民街にしか残らない 戦時中の鉄製電柱が 足元に注意しないと、 踏み外せば一気に川底まで 探検隊はその先に 衝撃的な光景を見た! その衝撃内容は 次回後編でお伝えする! グーグルアース 脚本・監督  秋蛇星 秋 蛇 星 ワ | ル ド DSCF8006


秋蛇星短編映画製作所 20220127制作
#限界集落 #朝鮮部落 #消滅集落 #丸山 #長田区 #神戸市 #バラック集落 #廃屋 #角力組 【裏神戸探検隊!】神戸電鉄丸山駅下謎のバラック消滅集落 後編②「 大日温泉と丸山音頭の秘密」~檜川町・西丸山店舗生存・廃業実地調査付~丸山コミュセン&コープ丸山口コミ
【脚本】 前編(第1巻)のおさらい 電鉄丸山駅に到達した探検隊は 駅直下の部落を目指した! そこは、丸山の中でも特に ディープな地帯として知られ、 丸山住民でさえ近づくことはない。 謎の企業 「有限会社角力組」
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動物火葬場 ペット霊園
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電鉄丸山駅下
謎のバラック消滅集落に残る小動物火葬場跡後編②
角力組動物霊園を出た探検隊は、さらに谷底を目指していた! その行く手には、ついに行き止まりに存在する人家が見えた! 長い塀の崖下に幾棟かの屋根が見えた! 洗濯機のようなものが転がっている! 廃屋なのか、住人がいるのか定かではない! これが部落最奥の謎の民家だ! 誰かが隙間からじっとこちらを 見ているような気配が! 玄関は厳重に閉められていたが。 一体どんな人がどういう経緯で こんな場所に棲み付いたのだろう? 電気は供給されるのか? プロパンガスは自ら運び込むのか? 郵便配達は来るのか? 苅藻川には、朝鮮部落へ至る一方通行の 対岸道路で工事が行われていた。 一歩踏み外せば崖下へ転落し、 誰にも気づかれずに放置されるのは必至だ。 誰かにあとを付けられているような焦燥感が襲う! ここにも、もう一軒 あったが、廃屋だ かなり大きな家なのでかつては 家族で住んでいたのだろう。
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角力組
曲「古い人形」 2009.04 オルゴール 2分42秒 オルゴール ピアノ ソプラノ ストリングス
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大日薬局
例の鉄柱電柱が!決して道は荒れてはいなかった・・・ ようやく集落へ戻る これも廃屋化していた。 対岸の朝鮮部落同様、朝鮮人らが多かったのではないだろうか。 よくぞ、こんな場所に資材を運び込み 建てたものだと感心するような地形だ。 神戸電鉄のレールを打つジョイント音が 頭の上から響いてきた。 丸山駅の方には戻らずにÝ字路の別道をさらに下ってみた。 それは、上から見えていた「角力組」事務所の方向だった。 そのプレハブ小屋は既に無人だと悟らせた。 前の家の軒に面白い看板を見つける これがそうだ!「怪談蒐集所」再び、あの鉄製電柱が! 曲「愛しのフロイントハイン」2015.10 2分23秒 コーラス/ベース/パーカッション  丸山駅方面へ戻る 激しい朽ち方の家々 火葬場付き動物霊園 連続「く」の字に曲がる急坂 その一角には菜園があった。 家を取り壊した跡地であるようだったが、 菜園があるということはまだ住人がいることを示していた。 電鉄丸山駅が見える 駅からは一人の中年女性が出てきた。 電鉄丸山駅 日本共産党のポスターが飛び込んできた。 旧・丸山小学校校歌 駅手前のY字路を右へ入ってみた。 かつては文化住宅が立ち並んでおり、 小学生の頃にそこに友人がいた。 昭和の文化住宅は消えていた。 さすがに駅ちかということで、土地には 一定の流動性があるのか・・・ さらに道は分岐する 私道につき立入禁止の看板 行き止まりと表記されている。 丸山名物の急こう配階段 文化住宅健在であった! 向かいが丸山ショッピングセンター跡 左に折れて進むと苅藻川沿いの朝鮮部落へ至り、長田へと続く。 曲:The Black Cat - Aaron Kenny 喫茶「赤倉」 向かいは「多幸八」の屋号の寿司店 シャッターは閉まっているので廃業か? タルタニ酒店も廃業していた! レトロな紋章は「キッコーマン」 「鶴は千年、亀は萬年」の組み合わせ しかし、どの店も一代限り数十年が寿命であった! 高橋歯科は生き延びていた! さすが、知る限り丸山で唯一?の歯科だけある! 和菓子「玉川」廃業! 大日薬局廃業! この辺りは、丸山バス停まで 丸山随一の”繁華街”だったところだ! 曲Light Thought var 4 - Kevin MacLeod  丸山の中心部らしく 「大日温泉」という銭湯があった。 大日温泉を振り返る ヤマシタデンキ健在! その昔、丸山にはご当地ソングが存在した。 丸山コミュニティーセンター 神戸市長田区西丸山町1丁目7番5号 「長田丸山音頭」、「長田丸山小 唄」(1932年(昭和7年))がそれである。 「雲か桜か ヨイトナー ツツジケ山か 長田丸山 花の山 花の山 ソレ ヨイトサノサー ヨイヤサノサー」「むかしゃ源平 鵯越も 今じゃ遊園」 などと歌われ、作曲は戦前期に活躍して多数の曲を残しながら突然 姿を消した謎の作曲家近藤十九二である可能性が高いという。 歌詞は少し稚拙な部分が残ることから地元の人ではないかと推測さ れ、歌い手は花隈あたりの芸者ではないかと推測されている。 昭和初期には全国的に新民謡が流行。多くの場合、発足や周年な ど、歌が制作されるきっかけとなった出来事があったらしく、作 曲年が丸山遊園地が完成した年にあたることから、この2曲も遊園 地の開設にちなんだものである可能性が高い。 (神戸市立博物館副館長 山崎整) 戦後には別の「丸山音頭」が作曲され、盆踊りを踊っていたという。
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丸山コミュニティセンター
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大日温泉
その昔、この辺りには種苗店が存在した。 くまさんマーク街のリフォーム店 インテリアノザキ コープこうべ コープ丸山 Google口コミ 77件 総合点3.5 小野塚文和 ローカルガイド · 44 件のクチコミ 11 か月前 ここは、店員さんの応対の良さが光る。値段 は、一般スーパーと変わらないが毎日、二 割引や、半額シールを貼った商品を見かけ る。なので、遅めの時間を狙って、来ている お客様もいる。日用雑貨は、間に合わせ程 度に売っている。 666 H- 63 件のクチコミ 6 か月前 あんまり、大きくない店ですけどいいです よ!!写メ見てください!関西にしかないかも wwww 河村祐輝 63 件のクチコミ 11 か月前 ここのスーパーは狭いですが色んなのもの があるので買いやすいです ふくママ ローカルガイド · 22 件のクチコミ 3 年前 買い物しやすい。良心的な店舗です。ここの組合員まつりはとてもレベルが高く、他の組 合員活動も素晴らしいです。 北井雅美 ローカルガイド · 26 件のクチコミ 2 年前 🈁は結構新鮮で品揃えも多いので私は利用しています。 奥野靖規 ローカルガイド · 146 件のクチコミ 2 年前 ミニコープ、駐車場が狭く少ないのが、難点‼️ 純米吟醸 ローカルガイド · 229 件のクチコミ 3 年前 買い物しやすい良い店です。 もちゃんもちゃ ローカルガイド · 10 件のクチコミ 4 年前 この区域で唯一のスーパーマーケットになります。 価格帯は少し高く感じますが、回りに商店があまりないことを考えると妥当の様な気 がします。駐車場が隣接しており、車での来店も可能です。 金森正太 ローカルガイド · 99 件のクチコミ 2 年前 コープ丸山は出来てだいぶたつ‼️50年前 には駅の近くに丸山ショッピングセンターと 言う市場があって活況をていしていた😁し かしコープがたつといっぺんで潰れてしま い丸山の人が買い物するにはここしかな い。遠くに行くならば、長田北町のライフか 湊川の東山市場にいくしかない😅あんま り、いいこと書いてないけれど、ものすごい こと忘れていた‼️「コープ共済」この保険 めちゃくちゃいいねん😃たとえば、2週間入 院♿🏥して、保険金を請求する時、普通は病 院の診断書必要だけれど、要らないと言わ れた‼️ラッキー😃💕病院に請求すると、一 通3000円くらいとらるので、助かります‼️ でも、もしも、仮にコープが潰れたら、丸山 の住民は路頭に迷う😅だから、極力コープ を、応援しよう👊😄📢 大平邦雄 ローカルガイド · 298 件のクチコミ 3 年前 とても、いい、お店です。もし!無くなる事あ れば、、、近くの方、全員、食料不足で餓死 致します。 リミョン 48 件のクチコミ 1 年前 対応が丁寧で気持ちよく買い物が可能 意外に評価がいい! 皆、撤退されたら大変だ! という思いがひしひし伝わってくるコメントでした(笑) その先を左折し、坂道を上る。 思い出深い通りなれた道・・・ その先にあるものは、果たして?? それは、次回のお楽しみ! 脚本・監督 秋蛇星 制作  秋蛇星短編映画製作所 協力・監修 大日丘商店街


制作  秋蛇星短編映画製作所
蛇星 秋 蛇 星 ワ | ル ド 制作  秋蛇星短編映画製作所







#五番町 #神戸市長田区 #丸山

番町・朝せん部落大潜入!
長田区と丸山地区大全集!5時間36分/
2020・2021年版
(神戸市民も近寄らないデンジャラスゾーンへ)

2 人が待機しています
2022/01/12にプレミア公開


神戸市のスラム問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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神戸市のスラムの一つ長田区の番町地区(現在は同和地区指定されていない)

神戸市のスラム問題(こうべしのスラムもんだい)では、兵庫県神戸市における近代以降のスラム問題について説明する。

概要

1867年慶応3年)の開港を機に、外国人居留地が整備され、北野地区に異人館街西国街道沿いに元町商店街と業務街である栄町通りが発展し、明治期には神戸の都心の骨格が形成され[1]、神戸市への人口流入は飛躍的に増大した。明治4年には北野村、宇治野村、花熊村の戸籍ですでに従来の村民の2-3倍に当たる来住人や借家人が見られた。流入者の多くは「日稼人足」であった。海外との貿易の拡大に連れ、荷役作業の労働需要が高まりを見せ、居留地建設をはじめとして市街地道路整備などの公共工事に伴う土木作業の労働需要が増え、こうした力役・補助的労働者が必要とされた。彼らは力仕事の傍ら、行商にも出て生計を立てた[2]

日稼人足

日稼人足は比較的容易に仕事が得られるために、の荷役作業場周辺に居住した。親方が運営する「労働部屋」に「部屋人足」として住み込む者や、木賃宿棟割長屋に家族と生活する者などもいた。明治30年代初頭辺りまでには、神戸港周辺にこうした「日稼人足」が数多く居住するに至る。古湊通には多くの木賃宿が集結し、沖仲仕人足の供給源となった。また上橘通などの長屋には、夫は仲仕仕事に出て妻がマッチの箱貼りの内職をする世帯が多く見られた[2]

こうした木賃宿や長屋は、幕末以来度々大流行したコレラを初めとする伝染病の温床とみなされ、衛生の観点からの対策を求められるようになった。当時の神戸は海港都市の宿命として、長崎横浜とともにしばしばコレラ流行の発信地となっていた。また、地域経済の発展に伴い、市の中心部を商業地域として整備すべきとの意見が大勢を占めるに至り、木賃宿、長屋はふさわしくないとする意見が多くみられるようになり、明治30年代以降、新たに神戸に上陸したペストへの恐怖とも相俟ってスラム対策がさらに強化されていく[2][3]

新川スラムの誕生

1899年(明治32年)7月、改正条約施行に伴い治外法権が撤去され、居留地制度も廃止されることとなった。有力者たちの中に、その機会に市区改正を推進し、土木・衛生・教育・勧業政策全般の刷新を図ろうとする気運が高まる。その一環として木賃宿移転の声も上がった。兵庫県は同年同月には宿屋営業取締規則を改正し、翌月には木賃宿営業区域を葺合村と長田村の一部に限定し、市内の木賃宿の移転を命じた。翌1900年には「不良長屋」の移転も計画された。これらの移転先として指定されたのが葺合村周辺が「新川」地域であったが、これらの移転はスムーズには運ばず、「新川」地域は長屋裏屋建築規制が適用されず安価な長屋が建てやすかったことも手伝い、明治30年代に爆発的な人口の増大を見る。この時期から大正期にかけてに生田川(新川)周辺に「新川」スラムが形成され、木造密集地域として現在に至っている。1901年1906年の5年間に葺合区の人口増加率は1.42倍であったが、「新川」地域は約5倍となりそのまま肥大化し、東洋一のスラムと言われた日本最大のスラムにまで成長。また、同地区は伝説のヤクザボンノこと菅谷政雄、五島組組長の五島伊佐夫、初代松浦組組長の松浦繁明、松下兄弟(松下組組長-松下靖男、松下会会長-松下正夫)をはじめとする初代山健組組員の出身地としても知られる。[2][1]

下層社会の生活

スラム住民によって代表される都市下層民衆の理想的生活形態は、女房子供が養うことのできる世帯の創出であったが、実態は雇用の安定しない「日銭稼ぎ」で、女房は言うに及ばず、子供も労働に加担しないと生計が維持できないほどであった。地域内には、行商人が開く仮設市場や一膳飯屋などがあり、売れ残りの安い野菜などが売られ、不安定な日銭稼ぎの労働者たちの生活を支えるに好都合な仕組みができ上っていった。しかし、仕事にありつけない者はその日食べるにも窮するありさまであった。スラムでは5軒、10軒単位で長屋の単位が形成され、米の貸し借りが行われたり、家主・地主の地域の顔役に援助を頼むなどの助け合いが行われるようになり、「共同主義」と呼ばれ、地域の強固な絆となっていった[2]

こうした下層社会の生活者らは日露戦争後の都市民衆騒擾の主人公となる。1905年(明治38年)9月、日露講和条約賠償金がないことに不満を抱いた民衆が蜂起し、東京をはじめとする大都市騒擾(そうじょう)を起こした。神戸では民衆が湊川神社伊藤博文の銅像を倒し、引き回すという激しい騒擾が繰り広げられた。騒擾の先頭に立ったのは行商人や「日稼人足」であった。大正2年2月には第1次護憲運動の渦中、立憲国民党から立憲同志会に鞍替えした代議士小寺謙吉の邸宅が多数の民衆に襲撃される事件が勃発。騒擾には職工学生、行商人、日稼人足などが参加した[2]

騒擾の背景には下層社会の生活難があった。日露戦争後の深刻な不況に1911年(明治44年)には米価高騰が重なり、8月には「紙屑長屋」「蜂の巣」などと呼ばれた棟割長屋住人の中には絶食者が出始めるに至り、地域の共同体が破綻せざるを得なくなり、家主・地主の援助も滞りがちとなり、民衆の不満が騒擾という形で爆発した[2]

細民部落改善事業

明治末期には、都市での下層社会の問題は政治問題となった。スラム対策がさらに強化され、同時に「都市スラム」に住んでいた「貧民」の選別も進行。「まじめな貧民」と、「あらゆる悪徳の製造場なる木賃宿」に沈殿し周囲に「悪影響を及ぼしている貧民」は区分けされ、劣悪な住環境の木賃宿の市中心部からの強制移転や木賃宿と実態が変わらない下宿・長屋裏屋の取り締まり強化が行われ「都市スラム」の解体が進められた。行政により新たに木賃宿営業区域として指定された移転先は、市周縁部に位置していた被差別部落周辺であった。そこは長屋裏屋建築規制の対象外であり、さらに狭小・劣悪な木賃宿や二畳敷・三畳敷程度の長屋が続々と建築され、急激な都市化による家賃高騰も手伝い、「貧民」が大量に流入していった。同時にその地域は、市中から排出される塵芥の処分地とされ、元々小さな集落であった被差別部落を、膨張を続ける「都市スラム」が吸収するような形で再編成され、新川スラムは明治末期で戸数(一千五百戸と八百余り)約ニ千三百余り、住民約一万五千人を擁する日本有数の一大スラムと新聞で報じられた。[3]

内務省は全国の警察を動かし「細民部落改善事業」を開始した。これは「下層」民衆の就学率の向上を図りながら、民衆が自力で生活改善し得るような精神の確立を目指すもので、民衆騒擾の鎮静化と治安維持を図ることが目的であった。この事業の推進のため神戸市では警察主導で矯修会、清風会、長田村一部協議会などの地域改善団体が組織された。精神面を重視した政策ではあったが就学率の向上のためには民衆の生計の基礎確立が必要であったため、こうした改善団体は盛んに授産事業を展開し地域住民の生計援助に尽力した。「新川」地域の矯修会では屑物改修事業が取り組まれ、その収入による自力更生が叫ばれた。一部協議会では職業団体を組織しての営業改善に力を入れ、清風会では神戸籠製造事業に取り組んだ[2]

民衆の生活難の原因の一つに米価騰貴など食料品などの生活必需品の価格の高騰があったため、神戸市は1904年(明治39年)に公設卸売市場の設置案を市会に提出した。これは価格の統一を狙ったもので、他の都市でも同様の計画が見られ、流通を合理化し食料品価格の安定を狙ったものである。神戸市の提案は市会で否決されたが、後の社会政策の先駆となった[2]

賀川豊彦

当時神戸神学校の学生であった賀川豊彦は、結核で死の淵から生還できたことを「神の恩寵」と感じ、「貧民」に自らの命を捧げることで神の恩寵に応えようとした。賀川は1909年(明治42年)9月から「新川」で路傍伝道を開始。同年のクリスマス・イブに「新川」で居住を始めた。その救済対象は、捨て子、病弱な老人、やくざ者、労働能力や意欲なき者にも向けられ、改善団体が見向きもしない人々をも対象としていた。賀川の行動はすべての人々には生存の権利があるとする主張を自らの実践で表そうとするものであった。賀川は近代的な家族生活を理想に掲げ、「新川」の民衆にもその考えを伝道した。具体的には、中産階級である船長の一家に「新川」の児童を預けたり、児童の親の生計を援助する目的で一膳飯屋を運営したり、金品の援助を行うなど試行錯誤を繰り返しながら、徐々に「新川」に定着していった。一方で現在では、賀川の『貧民心理の研究』(1915年)などの著書に、被差別部落の人々への差別的見解(明らかな誤りである「人種起源説」の主張など)や差別的語句・表現が見られるという指摘もある[2][3]

脚注

  1. ^ a b 神戸市 第4回計画評価部会 資料o.2”. 2020年11月30日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『新修・神戸市史 歴史編Ⅳ 近代・現代』神戸市 1994年1月20日発行
  3. ^ a b c 共済研修講師日誌 賀川豊彦記念松沢資料館嘱託講師の活動報告”. 2020年11月30日閲覧。

関連項目

【おぉたむすねィく探検隊 精神分析研究班】
廃墟とその美、日本人の精神構造を考える会 特別チーム


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