【おぉたむすねィく グループ公式ブログ】Autumn Snake

もっと詩的に生きてみたい! だから私は【おぉたむすねィく探検隊】 揺り籠から墓場までご案内いたします。

2016年12月

「追憶の糸魚川~大火のメリー・クリスマス」涙のオルフェ(フォーリーブス)編 
糸魚川大規模火災前の歴史的町並み 音楽監督:寺山修司
総監督:秋蛇星

制作:2016/12/23  火元:上海軒とその周辺、日本海側までの一帯。
『追想!糸魚川』∼糸魚川大火に捧ぐ/懐かしいありし日の糸魚川の昭和レトロな路地裏風景  

糸魚川市大規模火災(いといがわし だいきぼかさい)は、2016年(平成28年)12月22日に新潟県糸魚川市で発生した火災である。

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火元の中華料理店
上海軒

目次

    1 概要
    2 フェーン現象
    3 経過
    4 脚注

概要
雁木に被われた商店街(2015年)

2016年12月22日10時28分頃、糸魚川市大町1丁目の中華料理店で火災が発生。市の中心部JR北陸新幹線糸魚川駅の北側に位置し、雁木が連なる商店や住宅など主に昭和初期の木造の古い建物が密集する地域であったことに加えて強風により延焼が拡大[1]。糸魚川市消防本部から12隊(消火隊9、救急隊等3)が出場したが[2]、火勢の拡大から近隣自治体へ応援を要請。県外を含む31隊(消火隊25、他6)など43隊が投入され[2]、地元の糸魚川市消防団も50隊が活動を行なった[2]。また、新潟県は糸魚川市に対して災害救助法の適用を決めるとともに[3]、陸上自衛隊第12旅団長(相馬原駐屯地)に対して災害派遣を要請し、第2普通科連隊(高田駐屯地)の120人が捜索救助活動に当たった[4]。

現地では363世帯・744名に避難勧告が出された[5]。折からの強風による飛び火で火点が分散したことに加えて[6]、応援による多数の消防車の放水で消火用水が足りなくなるなどして消火に手間取り[7]、火元から海岸に向かっての約150棟、約4万平方メートルが焼損[8]、同日20時48分の鎮圧まで約10時間半を要した。新潟県最古の酒蔵として知られている加賀の井酒造や[9]、過去の糸魚川での大火を免れた割烹・鶴来家など歴史ある建物も焼失している。一方、人的被害は22日時点では軽傷者2名のみ[2]と発表されていたが、23日時点では負傷者は8名確認されている[8]。

フェーン現象

この日は、日本海側の低気圧に南風が吹き込み、糸魚川市では22日午前10時過ぎには最大風速14.2m、正午過ぎに最大瞬間風速24.2mを記録したと気象庁が発表、温かい南風が山越えし日本海側に吹き降ろすと同時に空気を乾燥させ気温が上がる「フェーン現象」が起きていたとみている。出火当時は強風注意報が発令されていた[1]。
経過

    2016年12月22日
        10時28分 - 消防への通報[2][10]
        12時20分 - 最初の避難勧告の発令[5]
        13時00分 - 糸魚川市が「糸魚川市駅北大火災害対策本部」を設置[2][11]。同刻、新潟県災害対策本部を設置[2][12]
        13時59分 - 新潟県が自衛隊の災害派遣要請[10]
        20時48分 - 鎮圧[2][13]
    2016年12月23日
        16時30分 - 完全鎮火

脚注


    ^ a b 朝日新聞デジタル - 糸魚川大火 出火当時は「フェーン現象」か
    ^ a b c d e f g h “糸魚川市大規模火災(第6報) (PDF)”. 総務省消防庁 (2016年12月22日). 2016年12月23日閲覧。
    ^ “平成28年新潟県糸魚川市における大規模火災に係る災害救助法の適用について【第1報】 (PDF)”. 内閣府 (2016年12月22日). 2016年12月23日閲覧。
    ^ “新潟県糸魚川市における火災に係る災害派遣について(18時00分現在)”. 防衛省・自衛隊 (2016年12月22日). 2016年12月23日閲覧。
    ^ a b “建物火災に伴う避難勧告の発令”. 糸魚川市 (2016年12月22日). 2016年12月23日閲覧。
    ^ “新潟 糸魚川の火災 消火活動難航の中で飛び火か”. NHKニュース. (2016年12月23日) 2016年12月23日閲覧。
    ^ “糸魚川大規模火災、「鎮圧」も消火活動続く”. TBS News i. (2016年12月23日) 2016年12月22日閲覧。
    ^ a b 延焼150棟・4万平方メートルと発表 糸魚川の火災(朝日新聞デジタル 2016年12月23日閲覧)
    ^ “新潟県糸魚川市の火災に関するお知らせ(加賀の井酒造)”. 盛田株式会社 (2016年12月22日). 2016年12月23日閲覧。
    ^ a b “平成28年新潟県糸魚川市における大規模火災に対する災害対策本部会議 (PDF)”. 新潟県 (2016年12月22日). 2016年12月23日閲覧。


【おぉたむすねィく探検隊 心理学研究班】つげ義春研究特別班 特別チーム
【おぉたむすねィく探検隊 精神分析研究班】音楽と芸術、日本人の精神構造を考える会 特別チーム

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グーグルストリートビューは宝物です。

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なかなかに風格ある建物ですね。

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泣かせますな、こんなシーン。

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こんなゲージツ的な町角も消えたのかな?

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雪国特有の雁木が・・・

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木の雁木とよく似合ってますなあ。復刻する際にはもっと木を使ってほしいものですね・・・

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焼失した加賀の井酒造
Wikipediaあります。
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まだ建て替えて新しいようですが、残ってるんでしょうか?

激走!7時間/北陸路一般道国道8号のすべて
[東尋坊ー新潟上輪海水浴場]280 ㎞ 2016/10/8
 格安中国製ドライブレコーダーは見た!
音楽:ハイファイセット、渡辺真知子



【おぉたむすねィく探検隊 精神分析研究班】音楽と芸術、日本人の精神構造を考える会 特別チーム






つげ義春はなぜ懐かしいか Part2[1960年代風]

音楽;寺山修司、総監督:秋蛇星 2016.12.12公開

2016/12/20 に公開
2016.12.14 制作
音楽 寺山修司作詞集より
1、2-07 お月さましか話相手がいなかったら 萩原朔美
2、2-16 22歳 竹脇無我
3、2-8 彼女の日記 内藤洋子


つげ義春はなぜ懐かしいのか(第一弾)

+ねじ式+二岐渓谷+無能の人+初茸がり+紅い花+ゲンセンカン主人+池袋百点会+庶民御宿+チーコ+夜が掴む+李さん一家

https://www.facebook.com/tsugeyoshiharu/
つげ 義春(つげ よしはる、戸籍上は1937年10月30日[1][2]。(実際は4月の生まれ[1]) - )は、漫画家・随筆家。デビュー当初はつげ・よしはると表記していた[3]。本名の柘植 義春名義による作品もある。またナカグロを入れてつげ・義春と表記されたこともある[4]。『ガロ』を舞台に活躍した寡作な作家として知られる。

テーマを日常や夢に置き、旅をテーマにした作品もある。『ガロ』を通じて全共闘世代の大学生を始めとする若い読者を獲得。1970年代前半には「ねじ式」「ゲンセンカン主人」などのシュールな作風の作品が高い評価を得て、熱狂的なファンを獲得した。

漫画家のつげ忠男は実弟。妻藤原マキは、唐十郎主宰の劇団・状況劇場の元女優。一男あり。身長175センチ[5]あるいは176センチ[6]。

出生

1937年、岐阜県恵那市の豪農一族の生まれで[7][8][9]東京都伊豆大島の旅館に勤める板前の父・一郎と、同じ旅館のお座敷女中の母・ますの次男として、東京市葛飾区立石の中川べりの船宿[7](母の実父の家)で生まれる[10]。戸籍上は10月30日生まれであるが、実際は同年4月生まれ[11]。つげの出生時、父・一郎は伊豆大島におり、臨月の母が兄を連れ福島県石城郡四倉町(現・福島県いわき市四倉町)から大島(大島町元町)へ引越移動中急に産気づいたため、葛飾の実家に緊急迂回しての出産であった。出産時、産婆の来る前に母がつげを生み落としてしまったので、母の実父が泣き声もあげないつげに人工呼吸を施し、しまいには両足を持って振り回したという[12]。
伊豆大島、千葉大原時代

つげ義春の父・柘植(つげ)一郎は、腕のいい板前職人で、東京都大島町元町の最も大きく格式も高かった千代屋旅館に勤めていた。職位は板長=総料理長。千代屋は当時、皇族や政府要人が来島の際に必ず泊まる御用達旅館でもあった。また、「南風」「大島を望む」「伊豆大島風景」等を描いた画家・和田三造を始め、昭和初期の著名な画家達が定宿にしていたという記録もある。千代屋旅館の記憶について、つげは「縁の下に大きなイタチが住んでいた記憶がある」と後年回想している。つげが4歳頃まで暮らした伊豆大島は、家族が仲睦まじく経済的にも安定した時期であった。
つげが幼少期に過ごし、原風景ともなったいすみ市大原八幡岬。のちに『海辺の叙景』の舞台として描かれた。

つげ義春にとって伊豆大島は、父が板長として元気に仕事をしていた時代であり、波乱の多い生涯において唯一良い思い出の故郷である。1987年3月、雑誌「COMICばく」(日本文芸社)に発表した、密航を題材にした自伝的作品「海へ」において、大島の「三原山」「あんこ娘」「椿」「大島節」等を背景に、板長の父とあんこ娘姿の母の周りに3人の子(兄の政治と義春と弟の忠男、母の初産であった長女の守子は、つげが誕生する前、3歳時にすでに大島で死亡していた)、幸せだったつげ一家の情景が6カットに亘り描かれている。

1941年、5歳、三男・忠男が生まれた年、母の郷里である千葉県大原(現在のいすみ市)の漁村小浜へ転居。父は東京の旅館へ単身、板前として出稼ぎ。母は自宅で夏は氷屋、冬はおでん屋で生計を立てる。経済的には山をもてるほどの余裕があった。大原町では幼稚園に入園したが、集団生活になじめず、3日で退園。すでに臆病で自閉的な性格があらわれていた。この年、父は病に倒れ東大病院へ入院。
出生

1937年、岐阜県恵那市の豪農一族の生まれで[7][8][9]東京都伊豆大島の旅館に勤める板前の父・一郎と、同じ旅館のお座敷女中の母・ますの次男として、東京市葛飾区立石の中川べりの船宿[7](母の実父の家)で生まれる[10]。戸籍上は10月30日生まれであるが、実際は同年4月生まれ[11]。つげの出生時、父・一郎は伊豆大島におり、臨月の母が兄を連れ福島県石城郡四倉町(現・福島県いわき市四倉町)から大島(大島町元町)へ引越移動中急に産気づいたため、葛飾の実家に緊急迂回しての出産であった。出産時、産婆の来る前に母がつげを生み落としてしまったので、母の実父が泣き声もあげないつげに人工呼吸を施し、しまいには両足を持って振り回したという[12]。
伊豆大島、千葉大原時代

つげ義春の父・柘植(つげ)一郎は、腕のいい板前職人で、東京都大島町元町の最も大きく格式も高かった千代屋旅館に勤めていた。職位は板長=総料理長。千代屋は当時、皇族や政府要人が来島の際に必ず泊まる御用達旅館でもあった。また、「南風」「大島を望む」「伊豆大島風景」等を描いた画家・和田三造を始め、昭和初期の著名な画家達が定宿にしていたという記録もある。千代屋旅館の記憶について、つげは「縁の下に大きなイタチが住んでいた記憶がある」と後年回想している。つげが4歳頃まで暮らした伊豆大島は、家族が仲睦まじく経済的にも安定した時期であった。
つげが幼少期に過ごし、原風景ともなったいすみ市大原八幡岬。のちに『海辺の叙景』の舞台として描かれた。

つげ義春にとって伊豆大島は、父が板長として元気に仕事をしていた時代であり、波乱の多い生涯において唯一良い思い出の故郷である。1987年3月、雑誌「COMICばく」(日本文芸社)に発表した、密航を題材にした自伝的作品「海へ」において、大島の「三原山」「あんこ娘」「椿」「大島節」等を背景に、板長の父とあんこ娘姿の母の周りに3人の子(兄の政治と義春と弟の忠男、母の初産であった長女の守子は、つげが誕生する前、3歳時にすでに大島で死亡していた)、幸せだったつげ一家の情景が6カットに亘り描かれている。

1941年、5歳、三男・忠男が生まれた年、母の郷里である千葉県大原(現在のいすみ市)の漁村小浜へ転居。父は東京の旅館へ単身、板前として出稼ぎ。母は自宅で夏は氷屋、冬はおでん屋で生計を立てる。経済的には山をもてるほどの余裕があった。大原町では幼稚園に入園したが、集団生活になじめず、3日で退園。すでに臆病で自閉的な性格があらわれていた。この年、父は病に倒れ東大病院へ入院。

旅の履歴(1990年まで)
「来てよかった。いままでで最高の所だ。」(『颯爽旅日記』)と絶賛した岩瀬湯本温泉[56] 1955年 手伝いをしていた岡田晟に伴い湯河原温泉へ。旅館の女中と親密な仲になる[57]。 1958年 当時恋愛関係にあった女子大生のS、その友人ら4-5人で甲府の昇仙峡へ。26年後の作品、池袋百点会(1984年12月)のラストシーンに描かれる。 1965年 白土三平の招待で千葉県大多喜の旅館寿恵比楼に滞在。『不思議な絵』を描き上げる[30]。 1967年 井伏鱒二の影響で旅に没頭、唯一の友人立石と能登、飛騨、秩父、伊豆、千葉などを旅行。秋には一人で東北へ1週間の長期旅行(10月26~11月2日)。古い本で東北地方の湯治場の写真を見て、あまりに惨めで貧しい雰囲気に強い衝撃と胸騒ぎを覚えたため[58]。八幡平の温泉、蒸の湯、後生掛温泉、角館、小安温泉(多郎兵衛泊、サービスが悪くチップを出す気にもなれず早々に寝る)、会津から湯野上温泉(塔泉閣泊、期待外れだった)、塔のへつり、岩瀬湯本温泉、二岐温泉などを訪問。特に岩瀬湯元温泉を最高と評価。旅に強い印象を抱くとともに湯治場の雰囲気に魅了される[59]。初めての一人旅であった。この旅の強い印象から『二岐渓谷』、『オンドル小屋』、『もっきり屋の少女』の3作が生まれる。旅に関連した書物や柳田國男、宮本常一などを愛読する。 1968年 2月、群馬県の湯宿温泉、新潟の十日町から飯山線を経て長野県の麻績宿へ旅行。6月には外房の大原に1泊。7月、立石慎太郎と秋山郷、屋敷温泉、松之山温泉、草津温泉、花敷温泉、尻焼温泉へ旅行[30]。9月、九州方面へ蒸発旅行。自分の存在の実感が消滅し、蒸発したようにこの世にいながらいない状態を実感。 1969年1月、『アサヒグラフ』の取材で大崎紀夫、北井一夫と湯宿温泉、法師温泉へ旅行。2月に藤原マキと知り合う。5月、五能線の八森、鰺ヶ沢、黒湯、孫六温泉などへ旅行。また水木しげると長野県の明治湯へも旅行[30]。6月 千葉県房総半島の太海、鴨川、大原へ。太海で謎の虫に足を刺され、医者を求めさ迷い歩く体験をする。『ねじ式』執筆の翌年であった。8月には、藤原マキと夏油温泉から定義温泉、北温泉へ。定義温泉は精神科の紹介がないと宿泊できない施設で、門前のそば屋の計らいで「頭が重いのでわざわざ訪ねてきた」ことにして宿泊。押入れを開けて布団を取り出して寝ていると女将さんに激しく怒られ、このエピソードを後に『枯野の宿』にて使用する[60]。この数日後、『アサヒグラフ』の取材で再度、夏油温泉、蒸けの湯、今神温泉へ。暮れには1年半ぶりに作品を描く。 1971年 暇をもてあまし、東北、瀬戸内海、奈良、長野、会津などを歴訪。 1972年9月 漫画家としての将来に不安を抱き家賃の心配のない持ち家を物色するために、母の郷里である外房の大原へ妻とともに赴き、国民宿舎大原荘に一泊。しかし不動産屋が見つからず小浜という漁村を歩き、幼少期に住んでいた家を妻に見せ父の墓へ参る。その後八幡岬に登り、水平線を一望、潮風に当たり帰港する漁船を見ているうちに目頭を熱くし、何とかこの地に住みたいと願う。翌日は鴨川から、内房の金谷、上総湊の2つの物件を見る[34]。 1972年11月 不動産物件探しのため、再び大原へ。いくつかの物件を見て回り、小浜のの漁村内の古家付き30坪130万円の物件が気に入り、買う気持ちに傾く。幼少期に住んだ家の裏のつげの遠縁が経営する「横山」という民宿に泊まる。そこで母が地元で評判が良くなかったことを聞かされる。5、6歳ころによく遊んだ「松ちゃん」というその家の息子が部屋に現れるが会話は弾まなかった[34]。 1975年 友人の立石慎太郎と立石の車で関東平野を旅する。調布から川越、桶川へ至り深沢七郎の味噌を食べるため立ち寄るが、雨戸が閉まり呼び鈴を押すが反応がなかった。つげが立ち寄りたいと考えていた羽生や館林を通過し、足利でそばを食べ佐野へ。宿を探し葛生から栃木へ。川に面した商人宿の「手束旅館」[1]に泊まる。翌朝宿近くの骨董店で欠けた皿やガラス瓶を8000円購入し後悔する。小山、下館、笠間を通り土浦、江戸崎、布佐のコースを希望するも渋滞のために運転手の立石に否定される。立石はつげの弟のつげ忠男の勤める金物屋へ行きたいというが、今度はつげが否定したため気まずいムードとなる。京葉道路を通り午後8時ころ帰宅。立石はつげに向かって「また、つげさんのふくれっ面を見に来ますよ」と捨て台詞を残し立ち去る[34]。 10月には雑誌『太陽』の取材で田中小実昌、渡辺克己、編集者有川の4名で城崎温泉、湯村温泉などを旅行。ヌード小屋、ぼったくりバーなどで豪遊。田中小実昌の破天荒な遊びっぷりに仰天する。編集者の有川に有名な写真家Sなら100万円くらいかかると聞かされる。余部鉄橋、日和山公園で海女の実演などを見物[34][35]。



【おぉたむすねィく探検隊 精神分析研究班】音楽と芸術、日本人の精神構造を考える会 特別チーム
【おぉたむすねィく探検隊 心理学研究班】つげ義春研究特別班 特別チーム

寺山修司の世界『孤独よ おまえは~幸福が遠すぎたら』  内藤洋子

”春の野を行けば”~世界でいちばん孤独な猫・ちびとたまセミ野良猫の冒険 

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20160426

視聴回数 36 回


【おぉたむすねィく探検隊 精神分析研究班】音楽と芸術、日本人の精神構造を考える会 特別チーム

短編映画『雨の成松』寺山修司版~”シリーズ 寂びれゆく町”2016.12.3 制作;秋蛇星、写真;Akiyoshoshi Matsuoka

ロケ:兵庫県丹波市成松

視聴回数 25 回

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1、何にでも値段をつける古道具屋のおじさんの詩
2、二十二才
3、初恋の人が忘れられなかったら
4、ダイヤモンド
5、酔いどれ船/緑魔子
6、惜春鳥/欄妖子

『雨の成松』寺山修司版~”シリーズ 寂びれゆく町”2016.12.3 制作;秋蛇星、写真;Akiyoshoshi Matsuoka
ロケ:兵庫県丹波市成松、愛宕神社周辺、旧町並み、芦田青果

企画・制作・著作権 落葉舎
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兵庫県丹波市成松
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兵庫県丹波市成松
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兵庫県丹波市成松


【おぉたむすねィく探検隊 社会学研究班】世界の僻地と宗教を知る・考える会 特別チーム
【おぉたむすねィく探検隊 精神分析研究班】音楽と芸術、日本人の精神構造を考える会 特別チーム


『子猫を見ながら聴いていたい晩秋のブラームス』クラリネット5重奏曲Op.115 Clレオポルト・ウラッハ ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団 1952年 小金ヶ嶽登山 制作:20161209

秋蛇星
2016/12/09 に公開

【秋蛇星短編映画劇場】
http//blogs.yahoo.co.jp/autumn_snake_1995
Johannes Brahms's Clarinet Quintet in B minor, Op. 115
ブラームス クラリネット五重奏曲ロ短調 Op.115 Clレオポルト・ウラッハ ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団 1952年録音.zip

1891年の夏にバート・イシュルで作曲された。姉妹作の《クラリネット三重奏曲 イ短調》作品114と同時期の作品である。ブラームスは夏の時期に様々な避暑地を訪れていたが、何度か訪れていたこの避暑地以上に快適な土地はないとして、前年からその地で夏を過ごすようになっていた。バート・イシュル滞在中にブラームスは興が乗り、珍しく速筆で作品を仕上げている。
この2曲の初演は非公開を前提に、マイニンゲン公の宮廷において11月24日に行われた。演奏者は、クラリネット奏者のリヒャルト・ミュールフェルトとヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒム並びにマイニンゲン宮廷管弦楽団の団員たちであった。このときと同じ顔ぶれによる公開初演は、ベルリンにおいて12月10日に行われ、熱狂的な反響を得て全曲が繰り返し演奏された(ただしその2日後の上演は、評価が芳しくなかったという)。とうとう1892年1月5日にウィーン初演が行われた。このときの演奏者は、シュタイナーというクラリネット奏者と、ロゼー四重奏団であった。それから15日遅れで、ミュールフェルトとヨアヒム四重奏団もウィーンで上演を行って大成功を収め、無条件で称賛の念を表す批評で占められた。
ブラームスは、《クラリネット五重奏曲》のあまりの評価の高さに対して、「自分は《三重奏曲》の方が好きだ」と言っている。しかしながら《五重奏曲》はブラームスの暖かい秀作であり、楽章ごとに凝縮された内容と明晰な構成が見受けられる。
楽章構成[ソースを編集]
以下の4つの楽章から成る。全曲の演奏に36分程度を要するが、開始楽章をゆっくり演奏する風潮のために、39分前後掛かる例も少なくない。
アレグロ(ロ短調、6/8拍子、ソナタ形式)
アダージョ(ロ長調~ロ短調~ロ長調、3/4拍子、三部形式)
アンダンティーノ(ニ長調の間奏曲、4/4拍子)
コン・モート(ロ短調、2/4拍子、変奏曲形式)
楽器編成は、通常の弦楽四重奏にクラリネットを加えたものとなっている。

第1楽章[ソースを編集]
心に染み入る歌曲的な雰囲気に満ちたソナタ形式。冒頭でライトモチーフ風の短い動機が第1・2ヴァイオリンによって提示される。この動機は3拍子から6拍子へと滑らかに移ろい曲全体を統一的に貫いていく。ついで5小節目にクラリネットがピアノで入るが、本格的なクラリネットの登場は14小節目からのフォルテ・エスプレッシーヴォによる第1主題で、ここにチェロが含羞を交えた深い叙情を添える。最初の副次主題のあと38小節目からはクラリネットによる「非常に特徴的なハーモニーとメロディの柔和さ」(クロード・ロスタン Claude Rostand)を持つ第2主題へひきつがれる。その10小節後に第3主題が登場し、8分休符による効果的なシンコペーションのゆったりとした軽い間奏が続く。2番目の副次主題(59小節目から)は柔軟な旋律線のすべてをクラリネットが担当し、これを経過部として展開部へ進む。展開部ではじめて出てくる3番目の副次主題はここでしか登場せず、その間に提示部の各要素が、作品114の三重奏曲にはない自由さで用いられることは注目される。冒頭の動機が何度か繰り返されて展開部が終わり、提示部を踏襲した再現部へ続く。最後はコーダが付加され、またも冒頭の動機、さらにクラリネットにより第1主題が演奏されて楽章を終える。
第2楽章[ソースを編集]
3部構成のリート形式による緩徐楽章。クラリネットが奏でる、虚飾を取り去った、夢見るようなときに苦みばしった旋律は、多くの識者により真の「愛の歌」と評されており、それを弦部がコン・ソルディーノで支え、包み込む。第一部は、クラリネットによってシンプルに奏される主要主題が、哀切と親愛のこもった調子によるドルチェで歌われ豊かに展開されていく。第一部の中間では主要主題を逆行的に処理した副次主題が挿入される。中間部のロ短調ピウ・レントの挿句(52小節目から87小節目)は主要主題を使用してはいるが色彩をやや異にし、クラリネットがアリア的にまたレチタティーヴォ的に、ときに優雅にときに澄みきった叙情をたたえさらには悲愴な抑揚も交えて装飾音型をつないでいき、弦部がトレモロを響かせる。この挿句のジプシー風の性格は、長いパッセージと、8分音符による急なアラベスクによりいくどとなく強調される。ここでは細かな装飾音の多用と、名実ともにこの楽章の独奏楽器たるクラリネットのヴィルトゥオーゾ的表現力やラプソディックな奏法によってもたらされる極度の緊張感とが特に目を引く。第一部の再現(88小節目から)は第一部に沿ったものだが、クラリネットが第1ヴァイオリンと親密な対話を行う点は大きく異なる。自由な雰囲気のコーダがこのきわめて個性的な、まさにブラームス的創作技法の極致とも言うべきアダージョ楽章を締めくくる。
第3楽章[ソースを編集]
三部形式、23小節のアンダンティーノが、中間部の2/4拍子のプレスト(Presto non assai, ma con sentimento)を取り囲んでいる。軸になるのは急速な中間部で、より穏やかな両端部分はさしずめ前奏と後奏として機能している。この流動的な楽章において、アンダンティーノの主要主題がところを変えて現れる。ただし、明確な道筋が定まっているという感じではない。このアンダンテ主題は、初めはクラリネットによって弱音で示される。だがこの主題は、特定の形式によらないプレスト部にも引き続き現れるだけでなく、せかせかした足取りのスケルツォ主題として変奏されもするのである。このような構図は、いわゆるブラームス後期ピアノ小品集にも共通するものである。

Johannes Brahms's Clarinet Quintet in B minor, Op. 115 was written in 1891 for the clarinettist Richard Mühlfeld. It is scored for a clarinet in A with a string quartet and has a duration of approximately thirty-five minutes.

ackground[edit]
Clarinet quintets[edit]
At the time Brahms started composing his Clarinet Quintet, only a few works had been composed for this type of ensemble and even now there are not many. Examples include those by Wolfgang Amadeus Mozart, Anton Reicha, Carl Maria von Weber, Franz Krommer, Alexander Glazunov, Heinrich Baermann, and Thomas Täglichsbeck. Brahms modeled his composition after Mozart's.

Brahms and Mühlfeld[edit]
Brahms had retired from composing prior to listening to Richard Mühlfeld play. Brahms may have met Mühlfeld already when Hans von Bülow was directing the Meiningen orchestra. But it was Fritz Steinbach, von Bülow's successor, who brought Mühlfeld's playing to the attention of Brahms in March 1891. Brahms was very enthusiastic about Mühlfeld.[1] That summer at Bad Ischl, he composed the Clarinet Quintet and his Clarinet Trio Op. 114, both of them for Mühlfeld. He later also composed two Clarinet Sonatas.


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