【おぉたむすねィく グループ公式ブログ】Autumn Snake

もっと詩的に生きてみたい! だから私は【おぉたむすねィく探検隊】 揺り籠から墓場までご案内いたします。

2013年01月

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篠山市下筱見の暮園 筱見四十八滝のふもとのかその村に出現。
 
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筱見四十八滝
 
 
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 日本の仏教は、すべて観光仏教、葬式仏教であり、基幹産業であった電機業界は容赦のない韓国中国企業の攻勢の前になすすべなし。団塊の世代があの世への旅立ちが近くなり伸びが期待できる死亡産業へ期待が寄せられ、先を見越したかのように、各地で墓地建設も大活況。日本列島墓地だらけ。中には、悪徳墓石業者、不動産業者にだまされる寺院経営者や地主まで多発。要注意産業に指定された。
 
 こんな過疎の奥地にまで、墓地が広がっている。とわに静かに眠るなら静かな環境がいいけどね ^___________^
 
 
 
 
【おぉたむすねィく 神社仏閣部門】 墓場発掘班  担当: 大西輝明、写真:大原佳苗、勅使河原賢明、唐山健志郎 

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道端の雪 篠山市
 
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里山のある風景
 
 
【おぉたむ すねィく投資部門】編集部:写真担当 錦戸かおる、大原香苗

 
暴かれた王国の軌跡 ~オウム真理教全編 死刑囚の証言1995年4月16日
 オウム真理教(オウムしんりきょう)は日本の新興宗教(宗教団体)。坂本堤弁護士一家殺害事件や松本サリン事件、地下鉄サリン事件などのテロを含む多くの反社会的活動を行った。
 1996年(平成8年)1月に宗教法人としての法人格を失ったが活動を継続。2000年(平成12年)2月には破産に伴い「アレフ」と改称。その後、さらなる改称と分裂を経て、現在は「Aleph」と称する団体、および「ひかりの輪」と称する団体が教義や信者の一部を引き継いでいる。
 
 年(昭和59年)、麻原彰晃(本名・松本智津夫)は後に「オウム真理教」となるヨーガ道場「オウムの会」(その後「オウム神仙の会」と改称)を始めた。この頃、オカルト系雑誌の『月刊ムー』が、このオウムの会を「日本のヨガ団体」として取材、写真付きの記事を掲載していた。この写真は座禅を組んだまま跳躍するもので、後に同教団が言う所の「ダルドリー・シッディ(空中浮揚の原型)」とされる。
また、麻原は『月刊ムー』1985年(昭和60年)11月号に酒井勝軍の予言書『神秘之日本』に基づき、超能力開発を可能にして霊的に進化するための石(ヒヒイロカネ)を発見したという記事を投稿していた。
1987年(昭和62年)、東京都渋谷区において、従前の「オウム神仙の会」を改称し、宗教団体「オウム真理教」が設立された。また、同年11月にはニューヨーク支部も設立。1989年(平成元年)8月25日に東京都に宗教法人として認証された(登記上の主たる事務所は東京都江東区亀戸の新東京総本部)。麻原は解脱して超能力を身に付けたといい、神秘体験に憧れる若者を中心に組織を急速に膨張させていく。さらに麻原は自らをチベット密教の怒りの神「マハーカーラ」の化身だとも説き人を力づくでも救済するこの神の名を利用し、目的のためには手段を選ばず暴力を肯定する教義へと傾斜していく。
 麻原はチベット亡命政府の日本代表であったペマ・ギャルポと接触し、その助力によって、1987年(昭和62年)2月24日ならびに1988年(昭和63年)7月6日にダライ・ラマ14世とインドで会談した。麻原側は両者の会談の模様をビデオならびに写真撮影し、会談でダライ・ラマ14世が「日本に真の仏教を広めなさい」と麻原に告げたとしてオウム真理教の広報・宣伝活動に大いに活用した。ペマ・ギャルポはその後まもなくオウム真理教との関係を絶って積極的に対立するようになり、チベット亡命政府に対しても今後は麻原と関係を持たないように進言した。
宗教法人として認可されて以降、日本全国各地に支部や道場を設置。ロシアやスリランカ等海外にも支部を置いていた。大学などにおける講演会を開催や「オウム編集部」による出版物の刊行を開始し、若年層を中心とした布教・信者の獲得活動を行う。1989年(平成元年)当時には約1万人程度の信者が存在していたとされる。1988年(昭和63年)には在家信者死亡事件、1989年(平成元年)には男性信者殺害事件や坂本堤弁護士一家殺害事件など、凶悪事件を起こすが、坂本弁護士については任意の失踪の可能性があるとされるなど、この頃はまだ事件性すら確定されておらず、オウム真理教への容疑は及んでいなかった。
 1990年(平成2年)には真理党を結成して第39回衆議院議員総選挙への大量立候補(全員落選)など奇抜な活動が注目を浴び、修行の様子なども雑誌やテレビで報道され、徐々に知名度が上がっていく。1990年(平成2年)5月、シャンバラ化計画を実行すべく熊本県波野村に進出するが、地元住民の激しい反対運動に会う。また、そのことに関連して国土利用計画法違反事件で強制捜査を受ける。結局波野村はオウムが5000万円で手に入れた土地を9億2000万円で買い戻すことで合意。オウムの大きな資金源となる。これがきっかけとなり、ほぼ同じ時期に全国の各オウムの施設付近で、追放運動が巻き起こった。こうした一連の動きが、オウム真理教の被害者意識を高め、その後の事件のきっかけになったという指摘が多い。選挙の結果や全国各地での反対運動により、社会から全く受け入れられていないことを強く感じた麻原らは、違法行為によって低下した教団のイメージを向上させ、社会的認知を得ようと目論んだ。麻原は1991年(平成3年)を「救済元年」とし(教団内でこれを元号の如く用いた)、教団に対する肯定的な理解を得ようとする行動を活発化させた。麻原がマスコミに盛んに露出し、雑誌の取材を受けたり著名人との対談などを行ったほか、テレビ・ラジオ番組にも出演した。麻原はバラエティ番組にまで出演し、およそ宗教家らしからぬ言動で出演者や視聴者の歓心を買おうとした。このほか講演会開催、ロシアや東南アジア諸国・アフリカ諸国などへの訪問や支援活動、出版物の大量刊行などを行い、肯定的な評価を獲得しようとした。麻原の著作とされている書籍には宗教に関わるものが多かったが、一般の関心を得るためか直接関係しない内容の著作もあった。中には月間ベストセラーにランクインしたものもあり、一定の売上があったようであるが、教団と無関係な一般人が購入したことによるものであるのか、売れているように見せかけるため乃至は修行等の一環として信者が大量に買い占めた結果であるのかは判然としない。図書館への寄贈・納本も行っており、麻原の著書を初めとするオウム真理教の出版物は現在も国会図書館等に架蔵されている。特に若い入信者の獲得を企図し、麻原が若者向け雑誌に登場したり、1980年代後半から行っていた大学での講演会を更に頻繁に開催するなどした。これらの活動により一部の関心は得たものの、一方でマスコミから厳しい追及を受ける場面もあり、結局教団が奇怪な集団という以上の評価を得ることはほぼなかった。1992年(平成4年)にはサリン事件後広範に知られるようになるパソコン会社「マハーポーシャ」を設立。格安のパソコンを販売して活動資金を集め、パソコンを趣味とする若者等に知られるようになった。
 
 1993年(平成5年)以降は麻原が自ら進んでマスコミに登場することはなくなり、凶悪犯罪を計画するようになる。1994年(平成6年)と1995年(平成7年)には特に多くの凶悪事件を起こす。そのうちいくつかの事件では当初より容疑団体と目され、警察の監視が強化された。しかし、松本サリン事件では第一通報者が疑われ厳しい追及が行われるなど、後に捜査の杜撰さが指摘された。一方、マスコミが連日のようにオウムに関する報道を続ける。この頃よりオウムでは布施の強化が図られ、いったんは脱会した信者に対しても接触が強まり、ハルマゲドン思想などを説くようになる。LSDを使ったイニシエーションが在家信者に対しても盛んに行われた。費用は100万円であったが、工面できない信者には大幅に割引され、5万円で受けた信者もいる[3]。LSDによるイニシエーションは出家信者のすべてが受けさせられた。当時の信者数は、出家者1300人、在家信者を含めた総信者数は1万人ほどであった。LSDによるイニシエーションは麻原自身も試している。サティアンには独房が造られ、教団に対し疑問を持つ信者に対しては独房に閉じ込め、一日中、麻原の説法テープを聞かせ、暴れたり精神状態がおかしくなるものも続出。出家したばかりの信者が、教団の実際の様子がイメージしたものとは違うことに驚き実家へ帰ろうとしたところ、体力のある信者数人がかりで押さえ込み独房に入れるというような行為も日常茶飯となってきた。「信徒用決意」という書類が作られ、そこには信者が行うべき行動指針が記されたが、財産を教団に収める布施が強調されるようになった。麻原は、ここで「泣こうがわめこうがすべてを奪いつくすしかない」「身包み剥ぎ取って偉大なる功徳を積ませるぞ」「丸裸にして魂の飛躍を手助けするぞ」などと激しい言葉で強引に金を集めるよう命じた。これらが信者の監禁・誘拐事件へと発展した。
 
 麻原の疑心暗鬼はさらに深まる。林郁夫によって開発された儀式「ナルコ」は、チオペンタールという麻酔薬を使い、意識が朦朧としたところで麻原に対する忠誠心を聞き出すもので、疑い深くなっていた麻原はしばしば挙動のおかしい信者を見つけると林にナルコを命じた。また、麻原は林に命じ、信者一人ひとりの行動を監視していた。信者が自分の仕事の内容を他の信者へ話すことすら禁じていた。社会との軋轢が増すにつれ、教団内部に警察などのスパイが潜んでいるとしきりに説いていた。教団内の自治省では、信者同士が互いに監視しあい、密告するよう求めた。サティアン内部での疑心暗鬼はさらに深まり、記憶まで操ろうとしていく。林郁夫は信者に電気ショックを使い始める。拉致してきた女性信者にチオペンタールを使い「あなたはどうしてここにいるのか」と聞くと「拉致されてきた」と答えたため、林の開発した電気ショック機器で100Vの電気ショックを与えている。この際には3度目の電気ショックで効果が確認され、女性信者は「分からない」と答えた。その後、救出された信者には電気ショックを与えられた信者が他にもおり、字が書けなくなったり記憶がなくなっている信者が見つかっている。
1995年(平成7年)、警察は全国教団施設の一斉捜査を決めた。捜査の情報を入手したオウム幹部は警察の目を逸らすため、首都で大事件を起こすことを思い付き、3月20日に地下鉄サリン事件を実行した。しかし事件2日後の3月22日には、山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)の教団本部施設への強制捜査が行なわれた。施設からはサリン等の化学兵器製造設備、細菌兵器設備、散布のための軍用ヘリコプター等が見つかり、オウム真理教の特異な実態が明らかになった。以降、同事件や以前の事件への容疑で教団の幹部クラスの信者が続々と逮捕され、1995年(平成7年)5月16日には、教団代表であった松本智津夫(麻原彰晃)が上九一色村の教団施設で逮捕された。
 
 
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        暴かれた王国の軌跡 ~オウム真理教全編 死刑囚の証言
 
 
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【おぉたむすねィくAutumnsnake】編集部:オウム真理教研究班、廃墟探検部門 大西輝明、勅使河原賢明
 

     
 
「激論! 現代ニッポンと宗教」 朝まで生テレビ!1995年6月放送 宮台真司 大島渚ほか

  特別公開 「激論! 現代ニッポンと宗教」
朝まで生テレビ!1995年6月放送 宮台真司、大島渚ほか
 
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【おぉたむすねィくAutumnsnake】編集部:オウム真理教研究班、廃墟探検部門 大西輝明、勅使河原賢明

 
 
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中山大杣池冬景色
 あるとき、神戸市によってこの仙境が破壊されるときがきた。「青少年の健全な育成」が謳われた。そこにクルマが入れる道を作り、デイキャンプ場にするというものである。明らかな地元建設業者への仕事作りに他ならない。周囲の希少な雑木林と山池の織りなす景観は、こうしてありきたりな自然公園風に作り変えられてしまう。かつての美しさを知らない人には、現在の景観も充分に美しく写るのだろう。池の周囲には、無粋な柵が張り巡らされ、「立ち入り禁止、釣り禁止」とおおがきされた看板が立ち並んだ。公園風に作り直された領域には遊具のある場所を除きだれも見向きもしない。ただ、クルマを横付けできるデイキャンプ場だけが、夏の間だけ活況を呈す。 マナーを知らぬ者たちによって自然は荒らされ、車道の整備によって不法投棄が増えたため、あちこちに無粋な柵や看板が立て並んでいる。常に、行政によって自然はひとつずつ破壊されていく。この日訪れると、池の周囲にはサクラの苗が各所に植えられていた。さくらがわるいわけではない。しかし、元来ある自然とはことなった艶やかな風景は、さらに質の悪い訪問客を呼び寄せるだろうことは目に見えている。
 
 
 
 
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8617光世証券 過熱、即売り。
3349 コスモス薬品、さらに上値を志向するも相場は熟成。売り抜け出遅れに乗り換える。
 
 
 相場が過熱してきた。もとより日経平均が持ち合いばなれをしたいチャートになり、材料を欲しがっていたところへ自民圧勝の好材料。買い方と売り方のバランスは一気に買い方優勢に。買い方が仕掛けるには打ってつけのタイミングであった。こうして相場は作られた。今は、上昇相場で儲けた機関投資家は空売りのタイミングを虎視眈々と見計らっているところであろう。
 
 
【おぉたむすねィく】Autumn Snake  投資部門 
顧問:唐山健志郎(唐山健志郎経済研究所所長)
写真:Akiyoshi Matsuoka
 
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